昭和43年3月29日 朝の御理解
中村良一
ここへ、お参りをしてくると、一様に言われる事は、改まらなければとか、研かなければとか。信心は、本心の玉を研く事じゃ。信心とは、日々の改まりが第一じゃ、とこう言われる。話を、頂かせて頂けば、頂かせて頂くほど、なるほど、こりゃ、本気で一つ、改まらにゃいけんなと。本気で、研かせて貰わなければいけないなと。まぁ、一様に、みんなが、そこんところへ、心を置くようになります。皆さんも、そうだと思うのです。これは、本当のおかげを受けるとか、受けないのではなくて、人間、真実、幸せになるためには、自分自身の内容が、本当に、変わらなければ、真の幸せはありえないのだと。そういう様な事を、まぁ、あらゆる角度から、御教えを頂きますとです。確かに、そうだと分かる。そこで、本気で一つ、研きもしよう、一つ、本気で改まりもしようという気に、まぁ、一応はなるのですね、皆さんが。ところがその、いよいよ、改まらせて貰えるチャンスが、いよいよ本気で、この事を通して、研かせて頂かねばならぬという様な、言うなら、条件が揃う。その条件を、向こうの方へ押しやってしまう。ひどい事になると、これほど信心するのにと言う様な事になってくる。これでは、日頃、頂いておる教えは、もう、死んでしまった事になる。皆さん、そうですよね。歯を磨くというても、そうでしょうが。歯ブラシだけ、ごしごしやったって、大した事はない。そこに、歯磨き粉がつけられて、磨き粉がつけられて、初めて、歯が綺麗になる。そうでしょうが。靴を磨くというても、そうである。ただ布で、なるほど、磨きよる。磨かんよりも、良かかも知れんけれども。そこに、適量の靴墨が付けられて、そして、それが磨かれるところに、いわゆる、光が出る様な、ぴかぴか光るような、やはり、靴を仕上げて行くことも出来るように。私達が、本気で、改まらなければ、本気で研かなければと。まず、例えば、靴の例を言うならばです。まぁ、泥にまみれた時であっても、まずそれを、泥を落とす事が改まる事。自分自身の心の汚れというものをです。まず、私は、気付かせて貰う。その、はぁ、こういう心掛けでは、こういう汚い心では、人間、幸せには、なれないなという風にです。あらゆる角度から、間違いのない、絶対のものをです。ここで、お話を頂くんですから、一応、みんなは、そうなるんです。はぁ、本気で、いっちょ改まらにゃ。夫婦が話し合って、親子が話し合って、こりゃもう、改まる以外にはないぞと。俺たち一家が、本気で改まろう。本気で一つ、研かせて頂こうという事になる。みんなそう、嘘じゃない。やっぱ、本気で、思うておるのだけれども、実際、ほんなら、これが、歯を磨くなら、歯磨き粉ですよと。これが靴を磨くなら、靴墨ですよというて、言わんばかりに下さる事の磨き粉を、向こうへ、押しやろうとする。泥を落とそうともしない。その靴墨を使って、そして、磨こうともしない。これでは、何時まで経っても、研かれない訳でございますよね。皆さん、そうでしょうが。
昨日、私、朝の御祈念を終わらせて頂いて、二三日前に、高橋さんが、先生あの、尿の検査をしなければいけません。もうこの頃、久しゅうしない。私は、大体が、腎臓と糖尿病が悪いんです。それでもう、この頃は、おかげを頂きまして、全然、糖が出らなくなっておった。ですから、もう、久しゅう、尿の検査もしなかったけれども、新しく買って参りましたから、検査しますと言うておられました。ちょうど、昨日も、見えられまして、まぁ、私も、朝、小便立つのもございません、昨日は、その、催しますから。高橋さん、ほんなら、今日、調べて頂こうかと言うて、昨日の朝、調べて頂いた。私はもう、今まで、全然、調べてないけれども、糖は出ないものだと、こう思うておった。高橋さん、調べて下さったところがですね、もうあれは、五つのこう、いろいろな色が出る様になっとる。今までは、一番最高に悪い時でも、真ん中ぐらいの色が出よった。ところがです、もう、一番ひどい、いうなら、重体患者の色が出るんです。あら、こら先生、やっぱ、大変ひどうなっとりますばいという事であった。そして、その時に、私の心に閃くもの。その前の晩に、親戚から、家内の叔母が来ておりました。この前のお月次祭に、おかげ頂こうと思いよったら、あーた、もう、本当にもう、惜しい人が亡くなられましてですね。とても、間接的に、私もお取次させて頂いた事であったけれども。今日に具合が悪くなって、入院したところが、糖尿病と言う事であった。そしてもう、本当に、あっけなく亡くなられた、という話を、前の晩に聞いている訳です。私のも、もう、調べるなら、もう重体患者の糖が出ている訳なんです。思い回せば、回すほど、それこそ、最近、私の、五体に感ずる異常が、いろいろ、ある事です。それはもう、幾つもあるんです。今までかって、感じた事のない異常がある。
昨日も、尿を調べて頂いてから、食堂に入らせて頂いて、前に新聞があるから、新聞を開けたところに、何と、それは古新聞だったんですよね。私は、その日の朝刊は来てないのかと言うと、朝刊は来てないとこう言う。開いて見た所に、あの、吉田首相の、国葬の写真が、もう、菊の花に埋まった、首相の黒枠の、あの大きな写真が、新聞半面に出ておる。それはまぁ、私が、あんなに偉いという訳じゃないけれども、ワンマンなところは、良く似ていると、まぁ皆から言われておった。その似ておる吉田さんの、いわば、国葬の写真が、しかも、菊の花に埋まった写真が、目の前に、こうある。あれやら、これやら考えさせて頂く。そういう時にです。私の心の中に、昨日の朝頂いた、ね。金の杖をつけば曲がる。木や竹は折れる。神を杖に着けば楽じゃというものが、心の中にあるという事が、有難いのである。私も、やはり、しみじみと考えた。人間の寿命というものは、もう、自分では、どうにも出来ないもの。ですから、例えば、それなら、その重体患者に出る様な糖の尿が出ているという事であってです。それこそ、あっけなく亡くなるという様な事であっても。それが、どれだけの日にちがあり、どれだけの年数が、まぁ、先、あるやら分からんけれども。そう分かれば分かるほど、こりゃ、いよいよ、内容の充実した、本気での信心がなされなければならないなぁと、こう私は思うた。昨日は、終日、その事を思うと、思うただけでも有難かった。
昨夜は、ここ、下りましたら、お食事。もう早速、糖尿病の食事が出ている。もう、何時の間に、こげなもの揃えたかち。それは、昨日あなた、思いがけない人から、豚肉のお供えやら、トマトのお供えやら、頂いてる訳です。いわゆる、糖尿病食が、もう出てる訳なんです。そういったものに、私は、神様の御守護を感じん訳には参りませんですね。こういう御守護の中に、こういう神様の、お守りの中に、お互いが、この世を果てて行くという事であってもです。死に際にも、お願いをせよ。死んだからというて、神の世話にならん訳には行くまいがと仰った。死に際にもお願いをせよ。死んだからというて、神の世話にならん訳には行くまいがと。もう、やけのやんぱち、どうせ、短い命なら、と言うて、好きなものなっとん食べにゃという様なあり方ではなくて。そこには、食事の制約もありますけれども。そこんところを、修行とさせて頂いて。しかも神様が、このように、御守護を下さっておるという事は有難い。
お食事をさせて頂きながら、みんな、私のコタツの部屋に、みんな集まって来てから。どうでも、こら親先生。ひとつ、病院に、まぁ、三カ月ばっかりでも良いから、入って頂かにゃならんと言う訳なんです。もう明日、高橋さんが見えたら、早速、その手配をして貰おうというて、その、喧しい事なんです。そりゃまぁ、一等病室にでも、一つ入れて貰うてから、二三か月、ゆっくり静養するなら良かろうけれども。私の現在はです。もうそれこそ、どんなに、一等室であろうが、特等室よりも、何よりも勝る所は、ここより他にないのです。だから、私は申しました。病院に入れられるごたるなら、私は、ご結界で奉仕する時間を、もうちょっと増やそうと、私は言うた。もうここは、どういう特等室でも勝たん所なんだ。もう、という風にですね。こう、即、頂けれるという事が信心だ。ね。もう、昨日は、一日、私は、こらまぁ、何時もの事ですけれども、朝の御理解が、金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば、神を杖につかねばおられない様な、次々とお取次が続いておりました。もう、私の心の中に、一つの乱れもない証拠に、もう実に、淡々としたおかげが頂かれる。
昨日、若先生が、込み入った信心のお話を頂きたい。あぁ、そげなことは、今日はもう、止めてくれと言う様な風ではなくて。もう、その事に、本気で取り組んで、その事にです、ね。説明がしてやられる。私の心が、如何に平生心のおかげを頂いておったかという事が分かるでしょうが。例えて言うなら、神様は、まるきり、私を試すように、脅すように、前の晩に、叔母来てから、糖尿病で亡くなられた。あっという間に、あっけなく亡くなられた。糖尿病ては怖いですね。あんまり、体に異常が無いから、迂闊にしておる。それが、いよいよ、もう、病院に入院しなければならんという時には、もう手遅れであった。というて、私の、糖尿病という事やら、もう全然、気がつかんで、その話を、盛んに聞いている訳なんです、昨夜、前の晩に。それに、私が、何時も言う、神様の、いわば、声を聞く姿を見ると言う。例えば、古新聞紙の中からでもです。開かせて貰う所へ、いうならば、吉田首相の、元首相の国葬の、いわゆる、菊の花に埋まった、黒枠の吉田首相の、その写真を見せて頂いて。本当に、例えば、こういう事にもなるのぞと、神様が言うておられても。さぁ、それでもです、ほんなら、死に際にもお願いをせにゃ。死んだからというて、神の世話にならん訳には行くまいが。そして、それは、ほんなら、何ヶ月後、何年後か分からんに致しましても。確かに健康で、それが、私の、致命的なものになるかは、それは、なるかならないか分からないけれども。ほんなら、その短い期間を、本気でです、充実した信心生活に、本気で入らせて貰わなければならないなぁという事を感じる。これは、どういう事でしょうか。本気で、本当な事になりたい。本当の生き方がしたい。本気で研きたい。本気で改まりたい。その、いわば、チャンスを逃さず、そういう研きの材料というものをです。向こうに、押しやるようなことなしに、私は、そのまま、靴墨をつけて、靴を磨いた様なものであり。歯磨き粉をつけて、歯を磨いておった様なものじゃなかろうかと、こう私は思うのですよ。こういう問題が起きた、こういう難儀な問題が起きた。もう本当に、腹が立ってたまらんと、例えば、皆さんが、例えば言うとするならばです。常日頃、頂いて、本気で、本当に研くかにゃ、改まらにゃといった様なものは、もう棚の上に上げておる様なものです。もう既に、神の杖をついてはいないで、金や、木や竹を杖についておる様なものですから、それではおかげにならん。一歩でも後ろに、よろよろ、よろめいちゃならん、こういう時には。そん時に、どっこいと言うて、弾む事も要らん。まぁ、昨日の、私の場合など、ね。これは、いよいよ、本気で、信心させて貰わなきゃいけないぞ、ならないぞという事。そこで、私は、昨日も、私の入院、病院行きを、進めてくれと、最近、話すのです。
本当に、例えば、私が、何時まで本当に、生きられるやら。こりゃ、分からんのだ。そこで、お互いがです。こういう、いうなら、機会にです。しっかり、私の、伝えておる事を、皆さんが、本当に聞いて、行じておかないとね。どこが何処やら分からんぞと。私が、おる間氏しか、分からん事がある。私が、健康の内に、聞いといてくれ。ためには、本気で、行じなければですね。ただ、聞いとっただけじゃ分からん。さぁ、テープも沢山残っとる。それこそ、何百巻という様な、そのテープが残っておる。膨大な御理解集が出来ておる。十何年分の御理解が、ずーっと、もう、細大漏らさず、残してはあるけれども。読んだだけでは、聞いただけでは分からん事がある。本気で、勉強させて頂くとです。勉強させて貰う、させて貰いよらなければです、分からん所すらが分からんでしょうが。こうやって、日々、朝に晩に、御理解を頂いて、聞かせて頂いておるから、有難いのですけれども。それを、皆さんが、本気で、その御教えに、取り組んで、行じて行くうちに。先生、あそこは、あげん言いよりなさったけれども、ここはどうあるべきであるうか。あれは、どういう意味であろうかという事が、行じて行くうちに分かるのです。だから、本気で、取り組んどきなさいよと。そして、分からん所は、しっかり、聞いといて下さいよと。私が、頂いておるおかげ。私の頂いておる、知っておる限りの事は伝えておけれる。ですから、もう先生は、糖尿病で、一年後なら一年後、半年後なら半年後にでも、もう亡くなられるものと思うてから。本気で、皆さんが、勉強したら、須田先生が言われるようにです。信心は、一念で決めよと仰るような、私は、信心が頂けるのじゃなかろうか。その上、長生きのおかげを、私が、頂く様な事は有難いことだ。本当に、お互いがです、御教えを、本気で行じさせて貰い。教祖の教えて下さる事をです。本当に、確信を持って、そうだと頂けれる信心。
昨日、ある方が、交通事故で亡くなられた。その金を相手から貰わんならん。それをまぁ、本当に、向こうも亡くなっておられる。それを、向こうの方から、こうこうで、折り合いをつけてくれというて言うて見えた。ここにその、お母さんがお参りして見えますから。私がね、そげなこつどん、考えどんしなさいますなち。その人の、親戚、その人の家ではありません。もう、それこそ、これからの立ち行きの為にでも、そんなことを要求しちゃならん。いうならば、二人一緒に亡くなっておられる。いわば、御霊様達が、二人道連れ。それが、仲よう、いうなら、あの世行きをしておりなさるのであるから。ために、御霊が助かるために、そんな無理な事ども言うちゃならんよと、言うとったけれども。親戚の方達が、そりゃ、まぁ、何十万方でもありそうなもんと、まるきり商品のごとある。私は、昨日もう、本当に、腹立たしさを感じましたですね。本当に、信心が分からん者とは言いながら。何という事を言うだろうか。金光様の御信心はね。ただ、自分さえ良かりゃ良かといった様な事を、教える、ここは所じゃないて、私は言うた。あちらも立ちゃ、こちらも立ち。そこから、思いもかけない様なおかげが、双方の上に、立ち現れてくる様な教えしかしないのぞと。と言うて、私は、もう、その事についてから、懇々と話させて頂いた。終いにゃ、涙流してから、本当に、考えて見りゃ、子供も三人もある。年寄りも一人おられる。この際、本当、幾らでも余計貰うとかにゃ。これは、普通、人情だろうけれどもね。人情では助からん。たった、その場の、百万、二百万、よかい貰ったからと言うて、どうなるか。それで、子供、せいぜい伸ぶと思うか。神様のおかげを頂かなければ、出来る事じゃないから、と、まぁ言うて、私はその、これから一つ、信心させて頂くようにと言うて、話をさせて頂いたんですけれども、金光様の信心がですね。ただ、ご利益の事だけに、留まっておったら、もう本当に、それは、幾ら金光様の御信心であっても、そりゃもう、邪教と言うても良いと、私は思うた。自分の、都合の良かこつばっかり。そうじゃない。もう、みんなが立ち行くおかげを頂かせて貰わにゃならん。そのために、自分自身が変わらなきゃいけん。自分自身の存在が、どの位、周囲を明るくしていくか。どのくらい、人に、嫌な思いをさせておるかといった様な事を、気付かせて貰って、ね。自分自身の心の内容に、いよいよ、光を頂かせて貰う所に、その人が、部屋に現れると、何とはなしに、部屋が明るうなると言うくらいなものを、信心によって、身につけて行かなければいけんじゃろう、というて、お話をした事ですけれどもね。
ですから、本当に信心を、ご利益という事だけに、留めておりますとです。ご利益ご利益がありますとです。いよいよの時に、神の杖を取り失います。そして、さぁ、例えばほんなら、私が、昨日の様な時に、はぁ、こりゃもう、私ももう、こりゃ、いよいよもう、長くは生きられん。そこで、力落としをする。それが、また、致命的な事になってくるとも言えんのです。致命的な事になってくるのです。そういう時に、それをですね。本当にその、はぁ、これで研かせて貰う。これで、いよいよ、本当の事にならせて頂くんだという様な頂き方。もう、そこには、湧いてくる有難さというものは、これはあの、神様が、与えて下さるのでしょうね。本当の事が分からせて頂いて、そして、先の方は無条件。よし、一年後に、半年後に、お引き取り頂かせて頂いても、死に際にも、お願が出来れる信心を、しっかり、身につけて行きたい。そういう所に、私は、おかげの、本当の、お道で言うところのおかげというのは、そういうおかげと、私は言うんだと、こう思う。自分の、思うようになるという事だけが、おかげではない。改めて一つ、昨日の御理解をね、頂かねばなりません。金の杖をつけば曲がる。木や竹は折れる。神を杖につけば楽じゃと。何時、どのような場合でも、楽であるおかげを頂いておきたいと、私は思うですね。どうぞ。